ふと、思い出された岡本太郎が製作したモニュメント『太陽の塔』。
この彫刻作品は、現代に何を伝えようとしているのだろうか。
『太陽の塔』は、現在も大阪の万国記念公園に残されている。
1970年の日本万国博覧会(EXPO'70 大阪万博)で、テーマ館のシンボルとして立てられた。岡本太郎のパヴリックな彫刻作品。
万国博覧会は、バブル時代絶頂期、産業の発達した時代の象徴というイメージがある。この時代は私が生まれる前なのでどのような賑わいがあったのか分からないけれど、万国博覧会というと、その後開催された万国博(つくば)には行った記憶があるので、そういった印象かなと想像できる。
当時は、テーマ館として、内部も入れるようになっていたようである。『生命の樹』という胎内を思わせるように、壁面などが赤く塗られた呪術的な地下空間を思わせるようなものであったようだ(2010年に、また内部の見学が出来るようですが)。
「私の作ったものは、およそモダニズムとは違う。気どった西欧的なかっこよさや、その逆の効果をねらった日本調の気分、ともども蹴とばして、ぽーんと、原始と現代を直結させたような、ベラボーの神像をぶっ立てた」
万博のテーマである「人類の進歩と調和」rとは、反博して作ったといわれる「太陽の塔」。この、ベラボーなものとして、塚原史(「人間はなぜ非人間的になれるのか」)の解釈では、「首を切断された太陽の塔」とあった。確かに写真で見る限りでは、お面のように違う素材で貼付けられた顔からの胴体は切断したような感じである。「明日の神話」で原爆を受ける人物もそうだけれど、象徴される像は儚くも悲しく私には映る。
いけにえを捧げるかわりに、新しい生命である太陽を産み出そうとする祭りの儀式。それが、万博に集う群衆の群れと同化させている。
確かに、今公開されている話題映画の象徴にも、「祭り」というイメージで取り扱われている。
そう思うと、原始から受け継がれる生命の「祭り」という人間の本質的な象徴を表してるのかもしれない。岡本太郎の作品の意味を知ると、どこか切なくなる。岡本太郎は、覚悟を決めて岡本太郎になったという。その作品の全てを人生をかけて、時代と自己の心的な葛藤に反映させて作り上げていったのかもしれない。
参考文献、参考URL
塚原史『人間はなぜ非人間的になれるのか』ちくま新書、2000年
岡本太郎記念館 http://www.taro-okamoto.or.jp/
岡本太郎記念館で開催中の
『明日の神話』40年の軌跡展に会期中、足を運べたらと思います。ちょっと最近気になっています。
Sora
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