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Itinerary (In oswiecim 19 March)

3月19日

 前日はあまり眠れないかと思っていたけれど、疲れていたので早く眠りにつくことが出来た。Krakow Glowny駅から、PKPに乗り1時間30分で、オシフィエンチムに到着する。さまざまな本でにもあるように、アウシュヴィッツという地名の名はドイツ語で、ナチスドイツにつけられたもの。正式にはここの地名はオシフィエンチム。バスでも行けるのだけれど、朝一番で行きたいこともあったので列車を選んだ。6:40分発ー8:05分着。朝5時に起きた。まだ空は暗い。
 ずっと天気が悪かったのだけれど、この日は快晴。やはり晴れの日は気分もいい。

 オシフィエンチム駅に到着すると、そこからアウシュヴィッツ・ミュージアムまでは、徒歩で20分かかる。勿論この地を訪れるのは初めなので、道などまったく分からない。皆が歩いていく方向に向かう。途中には、家々が立ち並んでいる。趣のある家から、戦後に建てられたような家など。地元の人が通っているであろう店もある。結構歩いたところに、開けた広場に出る。車もたくさん並んでいた。そこにミュージアムの看板が見つけた。


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 日本にいる時に、事前に連絡をしてあったアウシュヴィッツ・ミュージアムの公式通訳者でもあり、外国人公式ガイドである、中谷剛さんにガイドをお願いしていた。待ち合わせの約束は、午前10時だったのでそれより早く行って博物館の外で写真を撮り初めていた。9時近くを回っていた。撮っている途中に向こうが気が付いたようで声をかけてくれた。無事に会うことが出来てほっとした。
 
 今日の案内は私一人だったので、私がカメラを持っていたということもあり、ビルケナウを案内してくれた。その前に、ユーゲンランペという、引き込み線が出来るまで使用していた場所まで車で案内してくれた。ここには、実際に使用されてたという牛運搬用の貨車が展示されてある。木造で作られている小さな貨車。ここにたくさんのユダヤ人が詰め込まれ、運搬されていたのかということを感じるだけで胸が痛くなった。当時はこの場所から、ビルケナウまでは線路が引かれていたという。


 そこからさらに車で、ビルケナウに向かう。敷地内を歩いたり、降車場といわれているユダヤ人が連れて来られて始めに降ろされたランペといわれている場所に立っても、実感が湧かなかった。何も感じなかったのです。案内に耳を傾けていたということもあるけれど、そこから歩いて破壊されたガス室に行ってはみても。



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 「ザウナ」といわれている室内に入り、そこに展示されているユダヤ人の無数の写真郡。美術家クリスチャン・ボルタンスキー死者のモニュメントという作品をすぐに連想しました。その時、初めて温かさというのを感じたのです。そう、ビルケナウには温かさがない。人間や自然の温かさというのを一切感じなかったのです。そこは霊園であり、死者を参る場所。記憶を残しておくための場所。「ザウナ」から出てしばらく歩いていると、ふいに私はこの地に来たという実感が湧いてきました。本当、突然に。

 過去の歴史ばかりではくて、こういうことがなぜ起こったのかということを考えることが大事、という中谷さんの言葉。私はその時、色々考えていたのだけれど答えは出ませんでした。けれど、やはり遠い場所からここに来て、この場所を歩くということにとても意味があることだと思ったのです。何故か安堵の気持ちが湧いていました。


 撮りきれなかったということもあり、私は次の日もアウシュヴィッツを訪れました。雪が降り続く中、当時の極寒のビルケナウを肌で感じながらカメラを向けました。

 
 
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Sora


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by sora_atmosphere | 2008-04-01 16:13 | 旅/Travel